歴史ロマン探訪ーエーゲ文明とトロイア戦争(会員投稿)
歴史ロマン探訪 – エーゲ文明とトロイア戦争
岸川 公一
はじめに
古代オリエント文明(エジプト、メソポタミア)の影響を受け、地中海の東部エーゲ海を中心に紀元前2000年頃、青銅器文化を伴った文明が萌芽します。そしてクレタ島を中心としたクレタ文明が紀元前1600年頃を最盛期として花開きます。クレタ文明はその後、同じ青銅器文化を伴うミケーネ文明にとって替わられますが、紀元前1200年頃、突如としてミケーネ文明も崩壊してしまいます。
古代ギリシャ文明の先駆けともなった、青銅器文化を伴うこれら一連の文明を総称して、「エーゲ文明」と呼んでいます。
そして「伝承物語の世界」に魅了された、19~20世紀の先人の「歴史ロマン」を追い求める情熱と好奇心・探求心が、それまで埋没していた三千数百年の時を隔てた「エーゲ文明の世界」に、新たな光を当てることになります。
本稿では、エーゲ文明の末期に伝説の都市トロイアを舞台に勃発したとされる「トロイア戦争」に焦点を当て、史実と物語の両側面から考察したいと思います。
「伝承物語の世界」に魅せられた先人たち
幼少期に読んだ少年向け啓蒙読本の中の「トロイア戦争」に強い興味を抱き、長じてホメロスの叙事詩「イーリアス」の熱心な読者となるドイツのハインリヒ・シュリーマン(1822~90)は、当時誰もがホメロスの「創作」と考えていた「トロイア戦争」が遠い昔に実際に起きた「史実」に違いないと考え、伝説の都市トロイアが、小アジア(現在のトルコ共和国)のエーゲ海にほど近いヒサルリック(「要塞の地」を意味するトルコ語)丘陵に眠っているものと、推定します。
彼は考古学の世界では素人でしたが、実業界で成功して得た私財を投げうち、四十代後半から亡くなるまでの二十年余に亘って丘陵での遺跡発掘作業の指揮をとり続け、九層に重なって埋(うず)もれた古代都市遺構を発掘したのでした。
一方、ギリシャ神話の「アリアドネーの糸」で知られる、クレタ島のミノス王の迷宮殿を舞台とした「テセウスのミノタウロス退治」の武勇談に強く惹かれた英国の考古学者、アーサー・エヴァンス(1851~1941)は、シュリーマンのトロイア発掘に刺激を受けて迷宮殿のモデルとなった建築物が必ずや実在すると考え、遺跡調査に赴いたクレタ島で千数百室を擁する広大な宮殿(クノッソス宮殿)跡を発見し、エーゲ文明の証しである宮殿跡の復元を成し遂げたのでした。
エーゲ文明の歴史
●エーゲ文明
地中海東部のエーゲ海を中心に紀元前2000年頃、青銅器製作技術を伴った文明として誕生する。クレタ島を中心に前期に栄えた「クレタ文明」(~紀元前1400頃)」と、それ以降(~紀元前1200頃)の「ミケーネ文明」に大別される。
●クレタ文明 [前期エーゲ文明]
クレタ島を中心に、紀元前1600年頃を最盛期として栄えた青銅器文明。ミノア文明、ミノス文明とも呼ばれる。文明の担い手である民族系統は不明..1900年にクレタ島で、英国の考古学者アーサー・エヴァンスによって広大な面積の「クノッソス宮殿」跡が発見・発掘され、文明の存在が確認される。中央集権政治が行われていたらしいが宮殿には外敵に備える防御壁が無く、内装に描かれたフラスコ画等から、比較的平穏な時代に海洋交易で栄えた王朝だったと推測される。
別称の「ミノス文明」は、全盛期に君臨した著名なミノス王に由来する名称。
紀元前1400頃、交易相手であるアカイア人の侵攻を受け滅亡したと云われる。女性的な優美さが同文明の特徴とされる。絵文字のほか線文字Aと呼ばれる文字が使われていたが、出土資料が少ないため文明の詳しい内容は判っていない。文明の全容解明には 線文字Aの解読が待たれる。
●ミケーネ文明 [後期エーゲ文明]
紀元前1650頃にペロポネソス半島のミケーネ地方に定住したギリシャ系民族のアカイア人が担い手となった、青銅器文明。紀元前1400頃、クレタ島に侵攻して島を制覇、クレタ文明を滅ぼすが、紀元前1200頃、ミケーネ文明も突如 消滅する..北方系民族又は「海の民」の侵略を受けて滅亡したと云われる。
1876年にハインリヒ・シュリーマンにより遺跡が発見・発掘され、文明の存在が確認された。線文字Bと呼ばれる文字が使用されており、20世紀に入ってミケーネ王宮跡から大量に見つかった線文字Bの粘土板を手掛かりとして、1952年にマイケル・ヴェントリス(英)により解読され、ギリシャ系のアカイア人がもたらした文明と判明。外敵に備えた巨石による城壁が同文明の特徴とされ、「クレタ文明」とは対照的に戦闘が頻発した時代背景であったことが窺(うかが)える。
【 関係年表】
紀元前 2000 頃 エーゲ文明の萌芽
紀元前 1600 頃 ク レ タ 文明 最盛期 ( ~紀元前1400 頃 )
紀元前 1400 頃 ミケーネ 文明 最盛期 ( ~紀元前 1200 頃 )
紀元前 1500 頃 ヒッタイト帝国 最盛期 ( ~紀元前 1290 頃 )鉄器文明
紀元前 1260 頃 トロイア戦争 勃 発 ( ~紀元前 1250 頃 )➡推 定
紀元前 1200 頃 ミケーネ 文明 崩 壊
紀元前 750~700頃 ホメロスによる長編叙事詩「イーリアス」の吟遊。
1868~1890 シュリーマンによる「ヒサルリック遺跡」の発掘調査。
1900 エヴァンスによる「クノッソス宮殿」の発掘。
1932~ ブレーゲン(米)による「ヒサルリック遺跡」の発掘調査。
1952 ヴェントリス(英)による「線文字B」の解読。
トロイア戦争 ―史実と物語文学の両側面から―
・史実としてのトロイア戦争 ―黒海交易権をめぐる覇権抗争
【トロイア戦争とは】
紀元前13世紀半ば(紀元前1260頃~1250頃)に、ギリシャとトロイアの間で十年にわたり交戦したとされる戦争を指す。歴史資料が見つかっていないため詳細不明であるが、戦争はギリシャ側の勝利に終わったと伝えられている。
注記:トロイアについては歴史資料が無く、民族系統や文明の特徴等は不明。
【トロイア戦争の発端】
アカイア人はクレタ島を制圧後、エーゲ海全域に影響力を及ぼすようになり、権益が重なる小アジアのトロイアとの間で紀元前1400以降、制海権をめぐる対立抗争が必然的に激しさを増すようになる..トロイアはそれまで黒海沿岸での交易権を独占し、金銀錫を始めとする取引を通じ莫大な利益をあげていた。
一方、ギリシャは青銅器の原料錫が黒海交易を経て入るため、交易権を念頭に黒海に通じるアルマラ海の入り口のヘレスポント(現ダータネルス)海峡の航行権をトロイアに強硬に要求し、両国の間に緊張関係が生まれる..これが「トロイア戦争」の直接の引き金になったと考えられる。
少年向け啓蒙書とホメロスの叙事詩を手掛かりに、シュリーマンが発掘の指揮に当たり九層に重なって丘陵で発掘された古代都市遺構の中で、「トロイア戦争」当時のものと彼が考えた第二層(下から二番目)は、千年ほども古い年代の遺構で、実際は人為的崩壊(戦争跡)の痕跡が遺構に残る第七層であることが彼の死後、判明する..それは二十世紀に入って1932年から丘陵の発掘調査を引き継いだ、米シンシナティ大学の考古学教授カール・ブレーゲン博士の綿密な調査結果によるもので、第七層の地層年代からトロイア戦争があったのは、ミケーネ文明末期の紀元前十三世紀半ば(紀元前1250)前後と推定され、これが現在の考古学界での定説とされている。
(2)物語としてのトロイア戦争 ―ホメロスの叙事詩 「イーリアス」より
ミケーネ文明末期のギリシャ人(アカイア人)は、当時の戦争を物語風に脚色し口承によって後世に伝え残した..そしてミケーネ文明が崩壊し歴史資料のない「暗黒時代」を経て四~五百年後の、ギリシャがアテナイを中心として迎えた古代ギリシャ文明の黎明期(紀元前八世紀頃)に、吟遊詩人ホメロスによってギリシャ神話の神々も登場する長編叙事詩「イーリアス」の形をとり、完成をみたと考えられる。
傲慢・粗暴で身勝手な総大将アガメムノンを忌み嫌う直情的で正義感の強いギリシャの英雄アキレウスを主人公に、物語を貫く主題を「アキレウスの怒り」と設定し、親友の仇討ちを誓った一騎打ちで宿敵ヘクトルを斃(たお)し、その遺体を最後に父親のトロイア王に引き渡す場面までが描かれている..両軍の戦闘ではギリシャ神話に登場する神々も両陣営に分かれ、入り乱れて応援を繰り広げる「血湧き肉躍る」、大スペクタクル叙事詩となっている。
「イーリアス」に描かれたトロイア戦争の勇士たちと神々
[事の発端]
増えすぎた人間を淘汰するための戦争を大神ゼウスが企てたものとされる。
[ 主たる陣容 ]
トロイア軍
プリアモス(トロイア王)、ヘクトル(第一王子)、パリス(第二王子)、カッサンドラ(王女)
[援軍の神々]アポロン(太陽神)、アルテミス(月の女神)、アフロディテ(恋の女神)
ギリシャ連合軍
メネラーオス(スパルタ王)、アガメムノン(ミケーネ王)、オデュッセウス(イタカ島領主)、
アキレウス(ギリシャの英雄戦士)
[援軍の神々]ヘラ(嫉妬の女神)、アテナ(知恵の女神)、ポセイドン(海神)
「イーリアス」のあらすじ
金羊毛探しの英雄船団「アルゴー船」の乗船員ペレウス(妻は海の女神ティティス、息子はアキレウス)の結婚披露宴には、オリュンポスの神々とギリシャのあらゆる英雄たちが招待されたが、「争いの女神」であるエリスだけは敬遠され、宴席に招かれなかった。
これに腹を立てたエリスは宴席で争いを起こしてやろうと、「最も美しい者に贈る」と書かれた金のリンゴを招待客のなかに投げ入れたから堪らない。居合わせた一番の美女を自認する女神たち(ヘラ、アテナ、アフロディテ)の間で、たちまち奪い合いが起こる。これを見た大神ゼウスが提案した。「君たちの誰が最も美しいか、トロイアの王子パリスに審判を仰いで貰おうではないか」、と。
(ゼウスのこの言葉の裏には、ある遠大で深遠な企てが隠されていた..)
女神たちはゼウスの提案に従い、使者の神ヘルメスに伴われ金のリンゴを持ってさっそくパリスの許に出向き、それぞれが自分を一番の美女と云わせようと、躍起になってパリスに巧みな言葉を投げかけた..ヘラは「この上ない権力を」と。アテナは「この上ない名声を」と。そして、アフロディテは「世界一の美女を妻に」と。パリスは、このアフロディテの言葉に心を動かされ、金のリンゴを彼女に与える。
ちょうどそんな折も折、トロイア王プリアモスは、友好関係にあるスパルタに王子パリスを団長とする「平和使節団」を送る。ところが、上述の経緯からパリスは女神アフロディテのかけた魔法によって、絶世の美女のスパルタ王妃ヘレネと恋に陥り、ヘレネを連れてトロイアの王都イリオスに帰還してしまう。
二人が一緒に戻って来たのを見た父のプリアモスと兄のヘクトルはひどく驚くが、パリスの行為を結局は擁護し、スパルタからの王妃返還の要求を頑としてはねつけてしまう。
これに激怒したスパルタ王メネラーオスは事の次第を兄のミケーネ王アガメムノンに訴える。スパルタ王妃を略奪したトロイアに対し報復を期して立ち上がったギリシャは、アガメムノンを総大将とする十万人の大連合軍を率い、ヘレスポント海峡を渡って小アジアのトロイアに対し、総攻撃をかける。
一方、これを迎え撃つトロイアも堅牢な城壁に守られた市街地に籠城し、一進一退の攻防戦が以後、十年に亘って続くこととなる。やがて、両陣営に厭戦気分が色濃く漂い出す開戦九年目を過ぎた辺りから、物語は急展開を見せる。
総大将アガメムノンの度重なる背信行為に、「こんな戦争はやってられない」と「怒り心頭」のアキレウスが戦列を離脱するや、戦況はトロイア側に優位に傾き、挙句には無二の親友パトロクロスがトロイア王子ヘクトルに討たれてしまう。ここで「復讐の怒り」に燃え仇討ちを誓ったアキレウスは、戦列に戻るとヘクトルに一騎打ちを挑み、遂にアキレウスの太刀の前にヘクトルは斃(たお)され、トロイア戦争の局面は今度はギリシャに優勢に傾く。この時、息子がアキレウスに討たれたのを知った父親のトロイア王プリアモスは、身の危険も顧みず単身、敵陣に紛れ込みアキレウスの前に現れると、晒し首にされても仕方のない息子の遺体引き渡しを、涙ながらに懇願する。その姿に同情を禁じ得ないアキレウスは、全身を清めたヘクトルの遺体を父親のプリアモスに返還する。
この名場面をクライマックスとして、長編叙事詩「イーリアス」は完結をみる。
トロイア戦争の結末
「イーリアス」は、嫡男ヘクトルの遺体引き取りを乞うプリアモスをアキレウスが許す場面で完結するが、アキレウスの後日譚やトロイア城の陥落にまつわる「トロイアの木馬」の話が、ホメロスとほぼ同時代の小アジア・ミレトス出身のアルクティノスの著作などを通じて断片的に伝えられている。
アキレウスの最期:
一騎打ちの末にヘクトルがアキレウスに討たれ、戦況はギリシャ軍優位に傾くが、その際にアキレウスはヘクトルより三日以上は生き永らえることは出来ないという、運命の女神の宣託を受ける..そしてヘクトルの死から三日目、アキレウスはアポロンの神助を得たヘクトルの弟パリスの急襲に遭い、その名にちなみ「アキレス腱」と呼ばれる、身体上の唯一の弱点部位の「かかと上部の腱」を射抜かれ、非業の死を遂げる。
アキレウスがまだ幼い頃、海の女神である母親ティティスは己の不滅性を息子にも分け与えようと、黄泉の国の川ステュクスに息子を浸した際に、手で押さえていた両のかかとの腱の部分だけが河川に浸されないまま、成長を遂げたアキレウスの全身を覆う、鎧よりも頑健な皮膚のなかでこの部位が唯一、身体上の弱点となっていた。
トロイアの木馬 :
戦況が一旦ギリシャ軍の優勢に傾いた後、アキレウスの死により戦況は再び混沌を極める..この状況を打開しようとギリシャの策士・オデュッセウスは一計を案じ、乞食に変装してトロイア城内に潜入し、神殿から守護神アテナのパラディオン像を盗み出す。そして作らせた巨大な木馬の腹の中に屈強な戦士50人を忍ばせ、城門前に木馬を置き去りにして陣地を焼き払うと、港を出航する。
突然、敵が船で引き上げるのを眼にしたトロイア勢は、怪しみながらも喜び、城門を出てその場にいた敵方の男を捕らえ詰問すると、男は答えた。
「ギリシャ軍は守護神像を盗んだため女神アテナの怒りを買い、これを鎮めるため神託を立てた処、戦いを放棄して木馬を作りトロイア側に贈ってアテナに献じさせれば、怒りは収まるであろうとの海神ポセイドンのお告げがあった。自分はそれをあなた方に伝えるためこの場に残された。もちろんこの木馬を壊したりすれば、ポセイドンの怒りを買ってたちまちトロイアに災難が降りかかることになるだろう。」
神殿からパラディオン像が何者かの手で盗み出されたと伝え聞いているトロイア市民らは、この男の言葉をなるほどとして受け容れる。男の言葉をなおも疑って「これはギリシャ側の何らかの策略に違いない」と主張する、プリアモス王の娘カッサンドラや「ギリシャの贈り物(木馬)に気を付けよ」と声高に警告を発する、アポロン神殿の司祭ラオコーンらの少数意見は「根も葉もない海神ポセイドンへの冒涜の言葉」として一蹴される..そして女神アテナに奉じるため、巨大な木馬はトロイアの戦士や市民らの手で丁重に城内に運び込まれる。
その晩、祝賀の宴席で酔い潰れたトロイアの戦士や市民らを前に、城内に運び込まれていた木馬に隠れ潜んだギリシャの戦士たちは木馬を出るや、トロイア勢を一気に討って壊滅させてしまう。この急襲に、あれほど堅牢を誇り不落の象徴であったトロイア城は、一夜にして呆気なく陥落したのだった。
「相手を陥れようと企(たくら)む、油断ならない贈り物」を意味する英語の格言;
”Beware of Greeks bearing gifts“➡ 「ギリシャ人の贈り物に気を付けよ」は、この「トロイアの木馬」の故事に由来するものとされる。
おわりに
ギリシャ文明の陰に隠れ、「エーゲ文明」の存在は19世紀後半まで考古学者の間で全く知られていませんでした。シュリーマンは、当時の誰もが「物語の世界」と考えていた「トロイア戦争」が伝説の都市「トロイア」を舞台に、実際に行なれた「史実」に違いないとの確信のもとにヒサルリック丘陵に眠っているとの信念で一途に掘り進めた結果、何層にも重なった古代都市遺構を発見します。これらが「トロイア戦争」と直接結び付く確証が得られるかは今後の考古学上の研究成果を待つとして、シュリーマンがなまじ考古学の専門家でなかったがゆえにこうした発見に繋がり、それに刺激された専門家のエヴァンスによる「クノッソス宮殿」跡の発掘と復元の成果となって、「エーゲ文明」を「ギリシャ文明」に先立つ新たな文明として歴史にその名を刻むに至ったのでした。それを思えばシュリーマンの「功績」は計り知れない「重み」があると云えます。そしてこの事は同時に、日常生活の中で通常の判断基準にしている「先入観」や「常識」、「思い込み」の類が、如何に「危うい」ものであるかを示唆しており、この点にわたしたちは今一度思いを馳せ、改めて「自戒」にしたいと思います。
(完)
(文責 岸川 公一)
出典 (8件の挿入写真) :
いずれも「古代地中海 血ぬられた神話」(森本哲郎 編) より引用。
参考文献:
「トロイア戦争」 -歴史・文學・考古学- (白水社 エリック・H・クライン 著 西村 賀子 訳)
「教養としてのギリシャ・ローマ」 (東洋経済新報社 中村 聡一 著)
「ギリシャ神話」 (社会思想社 山室 静 著)
「ギリシャ神話小辞典」 (社会思想社 バーナード・エヴスリン 著、小林 稔 訳)
「古代地中海 血ぬられた神話」(文藝春秋社・文春文庫 森本哲郎 編)
〆