早稲田サロン(2024.10.12)

10月早稲田サロンは去る12日(土) 夕刻、居酒屋「壱番館」に新規会員の村越正明さん
(1980年理工院卒)を講師役にお迎えし、「みんなよくなれ鳥獣りは ~あたらしい当
たり前を生きる」のテーマでお話いただきました。
出席予定者総勢14名に当日1名の飛び入りがあり、隣のテーブルも動員しての講演
となりました。

絵を描くのが元々好きな村越さんでしたが、職業絵描きとまではいかずレイアウト
を描く建築家の道を志望して、桐朋高校から早稲田の理工学部 建築科に進学します。
学生時代は指導教授の許で与えられた課題に取り組む日々。就職した設計事務所で
も設計業務に没頭し残業・出張・徹夜は「当たり前」の日々でした。 出張先で地方の
文化や自然に触れ、手帳に好きな絵を残したそうです。

そんな村越さんに「転機」が訪れるのは30代後半からの時期です。
主担当となった巨大再開発プロジェクトの業務に疑問を抱き始め、それまでの仕事へ
の情熱がスッと冷めるのを感じた村越さんの胸中に、改めて絵を描きたいとの想いが
高じて48歳で設計事務所を退職します。
そして50歳になった2005(平成17)年、独立して設計と絵の両立を目指した「アトリエ
ソン有限会社」新宿事務所を開設します。しかしここでも現実は仕事に追われ、健康
管理は二の次の「当たり前」の生活が続きます。
歳月は流れ、独立して10年目の60歳を直前にしたある日、「当たり前」の日課であるジ
ョギング中に突然、脳内出血(左被殻)に見舞われた村越さんは、右半身がマヒ状態のま
ま、武蔵野赤十字病院に救急搬送されたのでした。
そして病院で容態が安定して以降は身体機能回復のため、5ケ月間に亘るリハビリ室で
の「当たり前」のリハビリの日々が始まります。【※】

そうした中、還暦までの「当たり前」だった人生と、その後にふいに訪れた「当たり前」の
世界の双方を体験した村越さんは最も肝要な心構えとしてこのようにおっしゃいます、
『変わっていく「当たり前」を宝物として、希望を持ちましょう。』と。

この言葉は、年齢を重ねこれまでやれていたことが思うに任せなくなっている私たち
世代にとってもこれから先 充実した毎日を送るための貴重なヒントとなるメッセージ
と、私は受け留めました。

体調が未だ完全とは云えない中を 夜間の会合にお付き合いくださり、懇切丁寧にお話い
ただきました村越さんには、改めてこの場をお借りして御礼を申し上げたいと存じます。

【※】「みんなよくなれ 鳥獣りは ~あたらしい当たり前を生きる」の講演タイトル
    の由来を、村越さんの最新著書「みんなよくなれ 鳥獣りは」(三輪書店刊)の一
    節を抜粋し、以下に【追記】として皆さんにご紹介したいと思います。
    少々長めですが、講演タイトルの誕生にまつわる、読みごたえある内容です。
   
最後に講師の近影、サロン講演風景写真4枚の 計5枚の写真を添え、報告とさせて戴きます。

 以上

  10月18日  早稲田サロン 代表世話人  岸川  公一  

【 追  記 】

みんなよくなれ!鳥獣りは ( 村越正明 著 「みんなよくなれ 鳥獣りは」より )

...そんなある日、食事のお膳にハロウィン・カードがのせられていました。たぶん栄養士の方が季節の趣を患者全員に届けようと作った呉れたものでしょうが、私はとても嬉しく思いました。そして私は、食事と一緒にお膳の上に置かれてくる食札の余白に、お礼のメッセージと絵を添えて返すようになりました。宛名は書かず、病院で苦楽を共にする人たちに宛てたつもりでした。毎食続けるうちに、回収された食札を見た人たちの声が遠くから聞こえてくるようになりました。 私は嬉しくなってさらに描き続けました。キャンバスは食札の小さい余白でした。その小さい画面に次々に浮かんで来る景色をとどめたくて、 私の右手指は少しずつ動きはじめたのだと思います。

最初はぎこちなかった木々や草花、鳥や獣たちも、だんだんと自由に動き回るようになりました。 
( 中 略 )

リハ室に、起立台という下腿のストレッチ器具がありました。患者たちはこの台に乗って本を読んだりしながら思い思いに十五分間を過ごします。

担当の理学療法士の先生が、私が建築士であることを考慮して、この時間を使ってリハ室のパースを描くように、紙と鉛筆を渡してくれました。私は、透視図法を用いて室内の床や柱、壁、天井を描き、そこでリハをしている患者たちや療法士先生たちの様子を描き入れようと、その姿を見つめました。

絵に描こうとして改めて見た病院には、ひたむきにリハをする患者たちの姿がありました。そして、いつも横には明るく励ます医師や看護師、介護士、療法士、病院職員の方々がいました。みんな大変でした。それでも、一人ひとりが「よくなろう」、「よくなってほしい」と強く願っていました。患者の誰かが少しよくなると皆が喜びました。それはユーモアと笑いがある光景でした。皆のひたむきな姿は、いつも食礼に描いていた鳥や動物たちのひたむきな姿に、病院のコンクリート製の柱や家具什器は、木々や草花の姿に重なりました。

人間の姿で描けば深刻に見えても、鳥獣の姿で描けばユーモラスに映ります。

「鳥獣りは」はこうして生まれました。「鳥獣りは」は大好きな「鳥獣戯画」と「リハ」を組み合わせた造語です。その光景の中には、皆と一緒にリハする私もいました。

( 中 略 )

私は、突然の発症により、かつて「当たり前」と思っていた自分の体の機能と、四十年続けた建築の仕事を、少なからず失いました。それは重大な喪失でした。しかし、同じく「当たり前」と思っていた妻と家族、友人たちが、かけがえのない存在で、以前からずっと支えてきてくれたと知りました。そして病気や入院生活を通じて、同じ境遇の患者仲間と、傍らに寄り添う心優しい人たちを知りました。私には新しい世界でした。生涯リハを続けること。それが、私にとっての新しい「当たり前」になりました。

 (以下、割 愛 )     〆