「紺碧の空」誕生秘話(会員投稿)

 「紺碧の空」 誕生秘話(改訂版)

                                           会員投稿: 岸川 公一 (文責)     

 

【はじめに】

 

コロナ禍が世間を席巻し始めていた2020年5月、折からNHK朝ドラで放映中であった「エール」(作曲家・古関裕而の生涯を描いたドラマ)を題材として掲題の拙文を小金井稲門会ホームページに投稿しましたが、先般、小金井稲門会の現会員で在学中に応援部に所属し活躍された篠崎潔様から、現役当時の応援部監督であられた牛島芳先生の著書「応援歌物語 – 早稲田の青春ここにあり」からの抜粋文をご紹介戴きました。このご紹介戴いた内容も一部引用させて戴き、見直しました内容を「紺碧の空」誕生秘話(改)として改めて纏めましたので、以下ご笑読願えれば幸いです。

 

            「紺碧の空」 誕生秘話(改)

 

🔶 コロムビアの専属作曲家になるため上京

古関裕而は18歳の昭和3年に故郷・福島の地方銀行に就職しますが、仕事の手がすくと、五線譜を取り出し北原白秋や三木露風の詩集から好きな詩を選び、独学で趣味の作曲に没頭していました。プロの作曲家への想い断ちがたく、完成した譜面をビクターやコロムビアに送って売り込みを図るうちに、コロムビアの顧問で専属作曲家でもあった、山田耕筰の眼に留まり、「見込みがある」との講評を得ます。

 

こうして昭和5(1930)年4月、弱冠二十歳でその道の大家である山田耕筰の推薦でコロムビアの専属作曲家として契約し、プロとしての第一歩を踏み出すべく、新妻のきんこを伴い 故郷福島を離れて上京します。

そして翌昭和6年、二十一歳の時に、出世作となる早稲田大学応援歌「紺碧の空」が誕生したのでした。

 

その年(昭和6年)4月に、きんこが帝国音楽学校に入学します。そこには、同じ郷里の福島出身の伊藤久男(いとうひさお)が在籍していました。伊藤は卒業後にコロムビアの専属歌手となって、イヨマンテの夜やあざみの唄等の歌唱で後世、名を馳せることになります..

伊藤の下宿先が古関の自宅と近所だったこともあり、古関と伊藤はやがて行き来するようになります。

その伊藤の従弟に、早稲田大学商学部の学生で大学応援団である「春秋会」(当時は「応援部」の呼称はなかった)のリーダー役を務める伊藤戉(しげる・昭和8年卒)がいました..古関は伊藤の下宿先でその従弟、伊藤戉に会った際に、応援歌の作曲を依頼されます。

 

当時、東京六大学野球で宿敵の慶應義塾大学に負け続けていた早稲田大学の応援団は、何とか慶応の「若き血」(米国留学帰りの堀内敬三が昭和2年に作詞・作曲)に匹敵する応援歌が欲しいと切望し、作曲者として無名の若き古関に将来性を託し、白羽の矢を立てたのでした。

当時の早慶戦の記録によると昭和2年~3年は全敗、4年は3勝3敗と引き分けたものの、翌5年も春秋4連敗という惨憺たる成績で、血気盛んな「春秋会」としては「切歯扼腕」の想いでした。そうした中、昭和6年の春の早慶戦を2ケ月後に控えた4月になってこの沈滞した空気を打破しようと大学側は応援歌の歌詞を全校生から公募し、応募のあった三十篇のなかから高等師範部の住治男(すみはるお)が書いた「紺碧(こんぺき)の空」が、撰者の早稲田大学文学部教授・西城八十(さいじょうやそ)によって一字の修正も無しに選ばれました。

 

🔶 新人だからこそ過去はないが未来がある

 

西条八十は、ビクターから二年前の昭和4年に「東京行進曲」、翌5年には「唐人お吉の唄」などを立て続けに発表し、十万枚を超えるヒットを連発していました。西条は「訂正するところのない、素晴らしい詩だ。ただ、「覇者、覇者、早稲田」という箇所が作曲上、難しいと思われるのでこれは相当の謝礼金を積んででも、山田耕筰とか中山晋平といった経験豊富な専門家に依頼しないと無理だろう。」との助言をくれたのでした。過去、早稲田の応援歌は中山晋平、山田耕筰、近衛秀麿など、所謂「大家」が作曲を手掛けていましたが、慶應義塾の「若き血」を凌駕する水準には及ばず、無名の新人作曲家には荷が重過ぎるとして、謝礼金の余裕はないものの、ここは「大家」への依頼が無難だとの声も少なくありませんでした。

 

そうしたなかで伊藤戉は従兄の友人の古関の作曲家としての力量を信じ、周囲に「新人には過去はないが未来がある」と云って古関への依頼を熱心に説いてまわった結果、次第に賛成の声が強まり、最後には古関に作曲を依頼しようと云う声が大勢を占めるに至りました。

[大学校歌の歌詞に謳われている「進取の精神」が正にここに顕われています ➡筆者・注]

 

大学から正式に作曲依頼を受け、この経緯を知った古関は多いに感激して「早稲田のためにいい曲をつくりましょう」とこれを快諾しますが、応援歌の作曲の経験もなく、応援歌の発表会日程が迫り来るなかで呻吟するうちに、何とか4月末になって住と古関との若き二人の情熱が迸(ほとばし)る、新たな応援歌が誕生したのでした。そして早稲田大学の「第六応援歌」として、正式に登録されます。

 

この新曲を得た大学の応援団は、5日後に迫った早慶戦を前に6月8日から連日に亘り、古関自身も加わって大隈講堂で歌唱練習を続け、最終日には青山会館において淡谷のり子、徳川夢声らの出演の許に盛大にお披露目会が挙行されたのでした。

 

昭和6(1931)年6月13日、東京六大学野球春のリーグ戦の最後を飾る早慶戦の初戦でデビューを果たした応援歌「紺碧の空」は、野球部員とWの人文字を作る超満員の応援席を熱狂の渦で奮い立たせ、初戦こそは1対2と惜敗したものの、「若き血」の声援を凌駕する大熱唱の「紺碧の空」がとどろき渡る神宮の森で、球史に残る驚異の伊達投手の3連投と第2回戦での三原脩選手(のちにプロ野球でも活躍し巨人・西鉄ほか監督を歴任)の逆転のホームスチールを呼ぶなどして大方の予想を覆し、残り2試合を連勝して勝ち点を挙げ、早稲田大学を劇的な勝利へと導いたのでした。

 

この評判は一躍世間に広まると共に、その後「紺碧の空」はつぎつぎにレコード化され早慶戦の人気と相まって全国に広まり、早稲田大学の「第一応援歌」としてゆるぎない地位と評価を得るに至ったのでした。若き住と古関によるこの勇壮で且つ軽快な曲調はこれからも若者たちの心をとらえ続けて早稲田の歌として永遠に歌い継がれていくことでしょう。

 

昭和51(1976)年10月29日、「紺碧の空・生誕45周年」を記念した「春秋会」の募金活動を中心として大隈会館の一角に記念碑が建立され、永遠の生命としてよみがえっています。

 

(完)

 

参考文献:評伝「古関裕而 流行作曲家と激動の昭和」(服部芳則 著・中公新書)

     「応援歌物語 – 早稲田の青春ここにあり」(牛島芳 著・敬文堂)

動画 旧第六応援歌 紺碧の空 【原典版】

古関裕而が日本コロムビアに入社した翌年の昭和六年、二十一歳春に早稲田大学応援部の依頼で作曲し自身の出世作となった、東京六大学野球 応援歌「紺碧の空」の原典版(旧第六応援歌)。昭和六年春のリーグ戦最後を飾る早慶戦でデビューを果たした応援歌「紺碧の空」は、野球部員と応援席を一気に奮い立たせ、数年来負け続けていた宿敵・慶應義塾大学に2勝1敗として勝ち点を奪う快挙を挙げた。以来、「紺碧の空」は第一応援歌に昇格し後輩たちに歌い継がれている。(文責:岸川)