慶喜・海舟・栄一[会員投稿随筆]

(注)この投稿は関口氏が「小金井史談会」へ寄稿したものです。

     関口 朝四

 

              慶喜・海舟・栄一

明治元年(一八六八)十二月二十三日午後十時。フランスから帰国したばかりの渋沢篤太夫は静岡城下の宝台院の一室で、主君徳川慶喜(よしのぶ)との拝謁の時を待っ

ていた。渋沢篤太夫とは、後の渋沢栄一。日本の近代化を語る上では欠かせない人物だが、実は一橋慶喜後の十五代将軍徳川慶喜の家臣であった。

 前年の慶応三年(一八六七)正月、慶喜の弟昭武のパリ万博使節団の会計係りとして渡仏した。留学期間は五~七年の予定だったが、日本で大変革が勃発する。明治維新である。主君慶喜は大政奉還により自ら将軍の座を退いた。だが鳥羽・伏見の戦いで薩摩・長州藩に敗れ、朝敵となってしまう。江戸城を明け渡した後慶喜は水戸そして静岡で、三十年もの間、謹慎生活を余儀なくされる。本国の急変を受け、栄一は急拠して帰国。静岡に向かいこの日、約二年ぶりに拝謁することになったのだ。時に栄一二十九歳、慶喜は三十二歳。

侘住居(ずまい)の御様子を見廻して、昨年お別れを申した時とは実に雲泥の相違と、坐ろに暗涙に咽び居るところへ公は座に入らせられたので…略

 

僅か一年前には将軍として天下に号令していた人物が今は… その雲泥の差に、栄一は大きな衝撃を受ける。このような情けない境遇になってしまった慶喜の姿を見た栄一は感情を抑えきれず、なぜ大政を奉還したのか、鳥羽・伏見の戦いに敗退したからといって、その後官軍に抵抗せず恭順の道を選んだのはいか

なる考えか疑問をぶつけた。しかし慶喜は栄一の言葉をさえぎり、

 公は泰然として、今更左様の繰言は甲斐なきことである。…

と話頭を外に転ぜられた。こうして慶喜との再会の時は終わった。かくて慶喜の一連の行動の疑問は解けないままだった。

 慶喜は大政奉還に象徴されるように、まぎれもなく幕末の政治史を主導する一人だったが、明治維新を境に敗者として歴史の表舞台から退場してしまう。だが栄一にはずっと心に引っ掛かっていたことがあった。慶喜の一連の行動に対する疑問である。さらには明治政府の慶喜に対する処遇には憤懣やる方なかった。

 慶喜は謹慎を解かれた後も、明治三十年迄静岡に住んでいる。政府に遠慮し自ら進んで謹慎を続けたのだ。公爵に叙爵されるという形で名実ともに名誉が回復されたのは明治三十五年(一九〇二)の事である。

 かくも長く慶喜を陽の当らない立場に置きつづけた明治政府の仕打ちに栄一は激しく憤慨する。

 

旧臣の目から見れば、朝廷の公(慶喜)に対する御仕向は余りに御情けない、畢竟これは要路に居る人々が冷酷の致す所であると思うについて、私は時にその頃の政界に時めく人々の挙動にはなはだしき厭悪の念を起こし、公の逼塞の御様子が見るに忍びぬ様に思われて、慷慨悲憤に堪えなかった。

(以上、徳川慶喜公伝)

 

栄一は「時めく人」の一人勝海舟(四十六歳)をどう評価していたのか。江戸城明け渡し(政権交代時)の対応について次のように評している。

 

当時における勝海舟の苦心は恐らく吾々の想像以上であったろう。また徳川家の為に尽くされた功績も甚大である。徳川家が朝敵の汚名を蒙らず静岡に七十万石を賜わることになったのも、海舟の働きが与って力あったのは否まれぬ事実である。しかしながら旧幕臣中には徳川家を売る奸物と誤解するものがあって「勝を生かして置けぬ」とその声明を狙う刺客が尠くなかったらしいが、何れも海舟の気力に圧せられて目的を達することが出来なかったようだ。伝うるところによれば、海舟は刺客であることが分かって居っても決して面会を避けず、堂々と面会して対者を説服し刺客の心を転じさせるには妙を得て居られたとの事である。―因みに、勝を暗殺にきたあの坂本龍馬が、勝の素晴しさに暗殺を取りやめ弟子になってしまう―ともかくその頃の評判は実に嘖々たるものであったから、聊か自ら気力のあることを信じて居った私は気力をもって知らるる海舟とは好んで会ったものである。            

(青淵回顧録)

 

ところが以下のようなことも述べている。

 

かようなことを云うのは好まぬのであるが、我々から見ると、勝伯(海舟)があの際今少しく親切に緻密に考えてくれたならと希望される点もないではない。けれどもとにかく優れた人物で新政府の西郷隆盛(四十二歳)に対し旧政府に勝あってこそ、両者が君子の行動に出でて、日本の帝都をして惨禍から救った。まさに起こるべき形勢になって居た騒動をして大事に至らしめず、未然に防ぎ得たと云う点は実に大手柄であって、功績の大なるものを遺した人に違いないのである。しかし実は日本の大混乱を生ぜしめなかったのは、勝伯と云うよりも、慶喜公が早々敬順の覚悟をせられたからである。しかるに慶喜公の御事は、あたかも雲に蔽われた太陽のように明らかに認められない嫌があってそこに現れたのは他の者であった。それが私達の物足らなく感ずるところである。    

(渋沢栄一全集一)

 

 栄一は海舟が果たした功績は認めるものの、その名前が喧伝されればされるほど割り切れない感情を抱かざるを得なかった。海舟と西郷の会談により江戸城無血開城が実現したのは事実だが、それを可能にしたのは、臆病者と謗られても朝廷への恭順を貫いた慶喜その人の政治姿勢にあると考えていたからである。ところが、そんな慶喜の姿勢は評価されず、「他の者」つまり海舟の功績ばかり評価され注目されることに栄一は不満を隠し切れなかった。

 一方海舟は、

 

自分の手柄を述べるようでをかしいが、俺が政権を奉還して江戸城を引払ふように主張したのは、いはゆる国家主義から割り出したものサ。三百年来の根底があるからといったところが、時世が許さなかったらどうなるものか。かつまた都府といふものは天下の共有物であって、決して一個人の私有物ではない。江戸城引払いの事については、おれにこの論拠があるものだから、誰が何と言ったって少しも構はなかったものサ。各藩の佐幕論者も、初めは一向時勢も何も考へずに、無暗に騒ぎまはったが、後には追々おれの精神を呑み込んで、おれと同意を表するものも出来、また江戸城引渡しに骨を折るものも現れて来たヨ。しかしこの佐幕論者とても、その精神は実に犯すべからざる武士道から出たのであるから申し分もない立派なものサ。何でも時勢を洞察して機先を制することも必要だが、それよりも人は精神が第一だヨ。

                              (氷川清話)

 

 また海舟(新政府での役職―海軍卿参議・枢密院顧問・伯爵)や榎本武揚(同

―外務卿・逓信大臣)など元幕臣でありながら新政府の要職に就いたことがあっ

たことについて

 

  福沢諭吉(三十五歳・時事新報・慶応大創立)がこの頃「痩我慢の説」というものを書いて、おれや榎本など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで「批評は人の自由、行蔵は我に存す」云々の返書を出して、公表されても差支へないことを言ってやった迄サ。福沢は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違ふよ。つまり「徳川幕府あるを知って日本あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし、嗤百年の日本を憂ふるの士はまさにかくの如くならざるべからず」サ。

(氷川清話)

 

勝てば官軍、負ければ賊軍、時の勢い、明治の世を歴史の敗者として生きた慶

喜を支えた栄一はどう生きたか、

立ち上げられたばかりの明治政府は人材難に苦しんでいた。国政を担当した

ことのない薩摩・長州藩を母体としている以上、それは至極当然のことである。佐賀藩士から大蔵大輔に転じた大隈重信(三十一歳 大蔵大輔・首相・早大創立)にしても長州藩から大蔵少輔に転じた伊藤博文(二十八歳 初代首相)にしても、そうした事情は同じである。そのため、諸藩から優秀な官吏として引き抜くが、最も熱い視線が注がれていたのが静岡藩だった。それまで国政を担当していた幕府が母体である以上、諸藩の中でも人材は圧倒的に豊富だ。栄一についてはその理財の才に白羽の矢が立ったのである。しかし、栄一は出仕拒否の姿勢を取る。商法会所の仕事が緒についたばかりであることは勿論幕臣としての誇りと慶喜に対する忠誠心が強く、いはば敵国に仕えるようなことを拒否したのである。

 しかし大隈は再三にわたり独特の説得を続ける。

 

  静岡藩から役に立つ人間が中央政府に入ったということになれば慶喜公も

肩身が広い訳だし、間接には慶喜公が国民のために尽くされたことにもなり、

多年君が抱いて居った意見をも実際の上に行われ得る。この点をよく考えなけ

ればならぬ。また慶喜公の立場として考えて見ても、君を政府に推挙する事は

ある意味において誠意を披露することになるから、君が政府に仕える事は、取

りも直さず慶喜公に対しても忠義の道を果たす事が出来るというものである。

眞に慶喜公を思いかつ国家を思うならば我意を通す事を止めて明治政府に仕

えるようにしなければならぬ。それが本当の紳士の道ではなかろうか。

 

  また君は今後実業をもって身を立て、殖産興業のために一身を捧げるとい

う事であるが、その根本が定まらなければ到底殖産興業の成果を期する事は出

来得るものではない。前にも申す通り今日は全く創業の時代であって、まず第

一に理財なり、法律なり、軍備なりその他教育、工業、商業とか、或いは拓殖

等の制を定める必要があり、大蔵省の仕事について言えば貨幣制度、租税の改

正、公債の方法、合本法の制定、駅逓の事、度量衡の制度等をはじめとして是

非とも確立しなければならぬ諸制度がすこぶる多い。これ等の根本が確立しな

ければ到底実業の發達を期する事は出来ないのである。

 従ってまず政府に入ってこれ等の根本を確立する事に努力をするのは君の主

張する実業の進歩を計る上から云っても寧ろ急務ではないか。      

(青淵回顧録)

 

明治弐年大隈の説得に折れて大蔵省入省。改正局を拠点として諸制度の改正を

推進したが、新政府の施策で衝突。明治六年大蔵省を去る。この間伊藤博文と

交誼を結んだことが後年に大きな財産となる。

晴れて民間人となった栄一は先頭に立って殖産興業の実現を目指す。まず自分

が官吏時代に交付した国立銀行条例に基づいて設立された第一国立銀行の総監役に就任。この国立銀行は国の法令に基づき設立された民間の銀行と云う意味で、最初に設立されたのが第一国立銀行であり、豪商三井家や小野家が母体だった。行員も両家から出向している。総監役とは両家の利益を調停する様な役職だった。後に頭取に就任する。

 栄一は銀行の設立のみならず、製紙・紡績・保険・運輸・鉄道・東京証券取引

所など多分野四八一社の設立に関わる。うち一八五社が現存(東商調べ)。

東商の初代会長も務め企業の意見を集約して政府に要望する仕組みの土台を

作った。その実績により、「日本資本主義の父」と呼ばれる様になる。

 一方、明治維新以来の慶喜の名誉回復を計り編纂事業を起こし二十三年を経

て完成。「徳川慶喜公伝」である。明治の世を歴史の敗者として生きた慶喜と徳

川家臣としての栄一。二人の意地の後世へのメッセージである。

 

海舟一二〇年忌、栄一生誕一八〇年を迎えた。

 

 日本の産業界では近年、利益追求だけを優先する企業風土に起因した品質不

正などが相次いでいる。道徳と企業の利益は両立すると説いた栄一の思想を受

け継ぐことには価値がある。(東商三村会長)

  • 栄一は令和三年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の題材に選ばれたことに

加え②令和六年度には新一万円札の肖像画となる見通し③史談会令和二年十月の見学会は栄一の生誕地深谷市と決定。

 明治人の根性・気魄・深謀等々再度息吹を見直す時かも知れない。

 

 ・註 初出年令は明治元年の数え年

 参考文献

 氷川清話 勝海舟 講談社学術文庫

 徳川慶喜と渋沢栄一 安東優一郎 日経新聞出版社

 青淵回顧録・渋沢栄一全集参考本ビキ