「紺碧の空」誕生秘話

[会員投稿随筆]

岸川 公一

🔶 コロムビアの専属作曲家になるため上京

古関裕而は、十八歳の昭和3年に故郷福島の地方銀行に就職しますが、仕事の手がすくと、五線譜を取り出し北原白秋や三木露風の詩集から好きな詩を選び、独学で趣味の作曲に没頭していました。プロの作曲家への思い断ちがたく、完成した譜面をビクターやコロムビアに送って就職活動を図るうちに、コロムビアの顧問で専属作曲家でもあった、著名な山田耕筰の眼にとまり、「見込みがある」との講評を得ます。

こうして昭和5(1930)年4月、弱冠二十歳でその道の大家・山田耕筰の推薦でコロムビアの専属作曲家として正式採用され、プロとしての第一歩を踏み出すべく、故郷福島を離れ新妻きんこを伴い、上京します。

そして翌昭和6年、二十一歳の時に、出世作となる早稲田大学応援歌 「紺碧の空」 が誕生したのでした。

その作曲の過程で苦悩呻吟する様子が、今月(5月)第四週(5/18~22)の朝ドラ「エール」で放映されました

 

その年(昭和6年)4月に、妻のきんこが帝国音楽学校に入学します。そこには、同じ郷里の福島出身の伊藤久男(いとうひさお、「エール」では佐藤久志の名前で登場)が在籍していました。伊藤は卒業後にコロムビアの専属歌手となって、イヨマンテの夜やあざみの唄等の歌唱で後世、名を馳せることになります。

伊藤の下宿先が古関の新居と近所だったこともあり、古関と伊藤はやがて行き来するようになります。

その伊藤久男の従弟に、早稲田大学の学生で応援部の幹部を務める、伊藤戉(しげる)がいました。

古関は伊藤の下宿先でその従弟、伊藤戉に会った際に、応援歌の作曲を依頼されます。

当時、東京六大学野球で宿敵の慶應義塾大学に負け続けていた早稲田大学の応援部は、何とか慶応の「若き血」に匹敵する応援歌が欲しいと切望していた折で、藁をもつかむ思いで伊藤戉のつてを頼り、作曲者としては無名の若き古関に将来性を託し、白羽の矢を立てたのでした。

すでに作詞については、早稲田大学の全校生から募集したなかから、高等師範部の住治男(すみはるお)が書いた「紺碧(こんぺき)の空」に決まっていました。 

 

🔶 新人には過去はないが未来がある

この詩の選者のひとりであった早稲田大学文学部教授の西条八十は、ビクターから二年前の昭和4年に「東京行進曲」、翌5年には「唐人お吉の唄」などを立て続けに発表して、10万枚を超えるヒットを連発していました。西条は「ほとんど訂正するところのない、素晴らしい詩だ。ただ、「覇者、覇者、早稲田」という箇所が作曲上、難しいと思われるのでこれは相当の謝礼金を積んででも山田耕筰とか中山晋平といった大家に依頼しないと無理だろう..」との助言をくれたのでした。

過去、早稲田の応援歌は中山晋平、山田耕筰、近衛秀麿などの所謂、「大家」が作曲を手掛けていましたが、慶應義塾の「若き血」を凌駕するには至らず、まして、無名の新人作曲家には荷が重過ぎる、謝礼金は準備できるかどうか判らないが、ここはやはり、「大家」への作曲依頼が妥当だ、との声も少なくありませんでした。そうしたなかで伊藤戉は、従兄の友人である古関の作曲家としての力量を信じ、周囲に「新人には過去はないが未来がある」と云って古関への依頼を熱心に説いてまわった結果、次第に賛成の声が強まり、ついには古関に「紺碧の空」の作曲を正式に依頼することに決定したのでした。この経緯を知った古関は「早稲田のためにいい曲をつくりましょう」と作曲を快諾しますが、応援歌の作曲の経験ひとつなく、応援歌の発表会日程が迫り来るなかで呻吟するうちに、何とか発表会の3日前になって「紺碧の空」は完成したのでした。そして早稲田大学の「第六応援歌」として、正式に採用されます。

昭和6年春、東京六大学野球リーグ戦の最後を飾る早慶戦でデビューを果した応援歌「紺碧の空」は、野球部員と応援席を一気に奮い立たせ、球史に残る三原脩選手のホームスチールを呼ぶなどし、早稲田大学を劇的な勝利へと導いたのでした。この評判は一躍、世間に広まりその後、「紺碧の空」は早稲田大学の第一応援歌として不動の地位を築き歌い継がれることとなり、東京六大学野球の早慶戦はもとより、今では早稲田の付属高校が全国高等学校野球選手権大会に出場した際にも、球場で斉唱されています。(文責: 岸川)