早稲田サロン(2025.10.11)

10月の早稲田サロンは去る11日(土曜)夕刻、定例の壱番館を会場に小金井稲門会
副会長を務める村田迪夫さん(1970 政経卒)を講師にお迎えし、「米国企業に勤め
て」のタイトルでお話いただきました。申込み後の撤回2名と締切後の応募1名が
あり、最終的に総勢14名が居酒屋の大テーブルを囲んでの講演となりました。

村田さんは1970(昭和45)年に第一政治経済学部・経済学科を卒業し同年4月、日本
勧業銀行(当時)に入行します。その1年半後、同行は第一銀行と合併して第一勧業
銀行(DKB)として発足します。(現在は「みずほ銀行」)1982(昭和57)年にシカゴ
支店勤務となった村田さんは1987(昭和62)年に名門MIT(マサチューセッツ工科
大学)で経営学修士を修了。翌年に帰国し国際企画部次長、外苑前支店長を経て
1992(平成4)年4月~1996(平成8)年4月までの4年間を、DKBの北米金融子会社で
あるCIT(Commercial Investment Trust)の副社長として出向します。この4年間
に於ける米国勤務時の村田さんの体験談などが語られました。

1989(平成元)年に DKBは売りに出されたCITを買収。日本現地法人向けの商機の
拡大促進とDKB出向者の補佐を兼ね、ニューヨーク・マンハッタン地区にCIT本部
(CITG)内の1部門として新設された米国人集団から成る、MULTI社(Multi National
Marketing)に、村田さんは1992年5月から1年間、副社長として出向、赴任します。
副社長としてここではCITG副会長との意思疎通が常時、求められたそうです。

続いて1996年4月までの3年間はCITGの筆頭副社長のポストに就きます。ここでは
CEOに対し常時、筆頭副社長として報告を行なう義務が課せられます。またDKBの
現地代表者(DKB社内は海外拠点長扱い)として子会社9社および持ち株会社管理部門
の計10部門の毎月の業績と管理運営状況について「マネジメント・コミッティー」席上
で説明を受けます。この会議では 前述の10部門に対して業績発表を求め、併せて各子
会社の営業計画に対し、本部CEO、副会長、筆頭副社長、副社長らが意見を述べ、CEOの
発言は絶対的ながら時にはDKB出向者の筆頭副社長や副社長が、親会社のDKBの立場
から意見を述べることもあるそうです。

但し事前にDKB内の承認を得ておくべき事案として特に、CITGによる「企業買収」は
DKBの常務会決裁事項となるため、絶対者たるCEOの決定がくだる前に情報の概要を
掴み極力早くDKBに伝えて常務会の決裁可否を予め確認する処置が重要になると云
います。

また同会議ではCITG法務部が決裁案件に対し意見を述べ、役員や従業員の福利厚
生関係、子会社の営業促進活動などはCITG広報部が起案するとのこと。CITGオフ
ィサーが出席する会議はCITGの結束を図る意味で重要な位置付けと云われます。

CITG取締役会では予めDKB出向者の筆頭副社長から事前に案件報告を受けている
DKB常務で非常勤役員の会長が当該案件を決裁するとのことです。業績が悪い子
会社は解散させられるケースもあり、その場合は当該社員全員が即刻解雇となるそ
うで、厳しい米国ビジネス界の現実を見せつけられる思いであります。

村田さんが筆頭副社長として出向したDKBの北米金融子会社のCITGでのおよその
業務概要は以上ですが、出向先での筆頭副社長、副社長の役割業務は日本現地法人等
の連絡事務所員として機能する一方、CITGの情報員として親会社のDKBと連絡を密
に保つことにあり、時差もあって昼夜を問わずの勤務が当たり前だったそうです。

とりわけ、CITG筆頭副社長のポストはCEOと副会長の双方と日々緊密な関係を保つ
ことが要求されることから、日常業務に於いて自宅に招待するなど、米国文化に慣れ
親しむのも大変だと、話を伺っていて改めて痛感した次第です。

引き続いての雑談にも花が咲き、積もる話題のなかで午後9時近くになって会はお開
きとなりました。村田さん、米国での勤務に続いて、サロンもお疲れさまでした。

最後に講師近影と集合写真、講演風景写真を添付して報告といたします。

 

以上

    早稲田サロン世話人  岸川  公一、矢吹  淳