イラクの世界遺産(投稿論文)

イ ラ ク の 「世 界 遺 産」

岸川 公一

 

初 め に

 

世界四大文明のひとつ、「メソポタミア文明」発祥の地であるイラクが誇る「世界遺産」としてユネスコ(国連:教育科学文化機関)の「世界遺産委員会」より認定を受け「世界遺産リスト」に登録済みのものは、2020年末現在、「文化遺産」5件と「複合遺産」1件の、合計6件があります。

それらをご紹介する前に、「世界遺産」について以下、概要をみておきたいと思います。

 

「世界遺産」は、地球の生成と人類の歴史によって産みだされ、過去から現在に引き継がれて来たもので、これを我々は未来へと伝えていかなければならない 「人類共通の遺産」です。

 

「世界遺産」 誕生の引き金となったのは、1956年に持ち上がったエジプトの「アスワン・ハイダム」の建設計画でした。エジプト南部ヌビア地方のナイル川西岸に遺(のこ)る「アブ・シンベル神殿」(新王国第19王朝のラメセスⅡ世が紀元前1250年頃に建造)ほか、一連の歴史的に貴重な「ヌビア遺跡群」はダムの完成によって、水没する運命にありました。こうした遺跡類を犠牲にしてまで計画を推し進めようとするエジプト政府に対し、ユネスコが「待った」をかけ、粘り強い救済活動 (遺跡の移築による保存キャンペーン)の末、各国の技術支援を得て巨大なアブ・シンベル神殿は1968年までに丘の高台に移築され、他の史跡類も全て移築を完了し、こうして「ヌビア遺跡群」は水没の危機を免れたのでした。この活動がきっかけとなって、1972年のユネスコ総会に於いて「世界遺産条約」が批准され、普遍的な価値を有する遺跡や建造物、自然環境などを、国際的なレベルで保護する考えが誕生しました。

 

「世界遺産」は、有形の不動産を対象としてつぎの三つの種類に分けられます。

 

(1) 「文化遺産」 : 

顕著な普遍的価値を有する記念物・建造物群・遺跡・文化的景観など。

 

(2) 「自然遺産」 : 

顕著な普遍的価値を有する地形・地質・生態系・絶滅のおそれのある動植物の生育や生育地など。

(3) 「複合遺産」 : 

「文化遺産」と「自然遺産」の、双方の価値を兼ね備えるもの。

 

2020年末現在、193ケ国が条約に加盟し、加盟国21国(任期6年間)で構成される「世界遺産委員会」が毎年1回、担当国の回り持ちで会場を提供し、申請案件の審査・認定に当たっています。

上に述べた「ヌビア遺跡群」は、1979年の第三回世界遺産委員会で「文化遺産」に登録されました。

 

「世界遺産リスト」への登録済み総件数は、2020年末の時点で1,121件があり、内訳は 「文化遺産」が869件(77.5%)、「自然遺産」が213件(19%)、「複合遺産」が39件(3.5%) となっています。

一方、これら1,121件のうち、存続の危機を憂慮し「危機遺産リスト」に重複登録されているものは53件があり、これは全体の5%弱に相当します。

 

イラク(計6件)は、登録数ランキング(1件以上登録済みの167ケ国を対象)で、隣国シリア(文化遺産が6件)と並んで54位(タイ)ですが、「危機遺産リスト」への重複登録件数は半数の3件を数え(内戦の続くシリアは6件すべてが対象)、それだけ多くの難題を抱えた国情を物語っている、と云えましょう。

ちなみに登録数1位(タイ)は、イタリアと中国で各々55件(いずれも、危機遺産登録は無し)です。

また、日本は23件(文化遺産19、自然遺産:4、危機遺産登録は無し)で12位(単独)となっています。

 

なお、一旦「世界遺産リスト」に登録された後に、これを取り消された事例としては過去に、オマーンの「アラビアオリックスの保護区」(1994年登録。保護区を縮小したため、2007年抹消)、ドイツの「ドレスデン・エルベ渓谷」(2004年登録。架橋により景観が損なわれたため、2009年抹消)の、2件があります。

 

イ ラクの世界遺産

 

イラク共和国の「世界遺産」認定・登録第1号は、1985年の「ハトラ」(=文化遺産)でした。

それから十八年を経た2003年に、第2号として「アッシュール」が「文化遺産」に認定・登録されます。

その後、「文化遺産」として2007年に「サマーラの考古学都市」、2014年に「アルビールの城塞」が続き、昨年(2019年)には、当初の申請から三十余年を経て念願叶い、「バビロン」が新たに認定・登録されました。 また、これに先立つ2016年には、筆者がかつて滞在したバスラ郊外の肥料プラント現場から距

離的にも近い、シュメール地方の四つの湿地帯と三つの古代都市遺跡群から構成される、「イラク南部のアフワル:生物多様性保護区とメソポタミア都市群の残存景観」が、「複合遺産」として認定・登録されました。 これら6件の世界遺産(文化遺産5件+複合遺産1件)について、以下に概要をご紹介します。

 

① ハ ト ラ   【文化遺産】

ハトラは、イラク北部の都市モスルの南90kmの砂漠地帯に遺る古代都市遺跡で、「神の家」とも呼ばれ、この地一帯を支配していたパルティア王国(紀元前247紀元後228)が、ローマ帝国のたび重なる侵攻に備えて紀元前160年頃に建設した、周囲を二重構造の城壁で囲まれた円形状の要塞都市である。 ハトラは元々、王都クテシフォンとシリア方面を結ぶ交易路の、重要な隊商都市でもあった。

 

二十世紀初頭、砂漠地帯に眠るハトラ遺跡の発掘を手掛けたのは、当時メソポタミア地方を統治していたオスマン・トルコと軍事同盟関係にあったドイツの、遺跡調査隊であった。

遺跡は東西1.9km、南北2kmの円形状に沿って城壁に囲まれ、中心部には王宮を兼ねたイーワー(アーチが架かった前面開放型の広間を有するイスラム建築)様式の太陽神シャマシュを祀った神殿と、パルテノン神殿を彷彿とさせるギリシャ様式の神殿や石像などが併存し、当時の「東西文化交流」の跡を窺い知ることのできる、貴重で且つ興味深い遺跡である。

 

本遺跡は1985年にフランスのパリで開催された第9回世界遺産委員会に於いて、ヨルダンのペトラ遺跡 などとともに「文化遺産」に登録された。 なお、2015年に当時この一帯を実効支配していた過激派組織イスラム国が、ハトラ遺跡の石像などを破壊した映像を動画配信したため、ドイツのボンで同年開催された第39回世界遺産委員会に於いて急遽、ハトラを「危機遺産リスト」に追加登録した。

 

② アッシュール (現代名 カラット=シェルカット)   【文化遺産】

モスルの南東100kmの、チグリス川西岸に遺る古代都市アッシュールは、南部シュメール地方でウル第一王朝が全盛期にあった紀元前2500年頃には、集落が形成されていたとみられている。

紀元前2000年頃、誕生したアッシリア帝国の建国当初からの王都で、国家神アッシュルを祀る宗教上の拠点として発展した。中興の祖であるアッシュール・ナシルパルⅡ世(在位・紀元前883859)が手狭になった都をニムルドに遷都するまで、千年以上の間、王都として存続した。ニムルドへの遷都後、帝国が滅亡する紀元前609年までのおよそ260年間に、王都はさらに コルサバード、ニネヴェと遷都されるが、一貫して旧都アッシュールのもつ、宗教的・政治的重要性が失われることはなかった。

西暦1258年にアッバース王朝(西暦7501258)を倒した蒙古(イル汗国)の治政下で、14世紀半ばに放棄されるまで、四千年近くに亘って幾多の王朝の興亡の下で綿々と都市機能を保ち続けた。

 

本遺跡は2003年にフランスのパリで開催された第27回世界遺産委員会に於いて、 アフガニスタンのバーミヤン渓谷 などとともに「文化遺産」として登録された。またフセイン政権時代にチグリス川のダム建設計画が持ち上がった際、計画による地下水の浸透の影響で遺跡の一部が水没する危機に晒(さら)された経緯を踏まえ、世界遺産への登録に際して同時に、「危機遺産リスト」にも追加登録された。

 

  ③ サマーラの考古学都市    【文化遺産】

   サマーラはバグダッドの北西80kmの、チグリス川西岸に位置するイスラム教シーア派の聖地のひとつで、アッバース王朝の第八代カリフ・ムータスィム(在位・833842)が836年にバグダッドから遷都後、892年にバグダッドに戻るまで56年間、王都として存続した。ムータスィムの勅令でイスラム世界一の規模を誇る壮麗な「カリフ宮殿」が建てられ、第十代カリフ・ムタワッキル(在位・847 861)治政下の852年には、これも当時イスラム世界最大級と評された「大モスク」(外周壁のみ現存)及び、高さ54mの螺旋形の付帯聖塔(ミナレット)が完成した。五層から成る聖塔は、周回して巨大な螺旋塔を形成する構造で、「螺旋形」を意味する「マルウィヤ」を冠し「マルウィヤ・ミナレット」と呼ばれ、その卓越したデザインから、国内に現存する史跡のなかで最も重要な一つとされ、「イスラム世界の至宝」と謳(うた)われている。また、861年には「大モスク」より一回り小さい、「アブ・ドラフ・モスク」(通称:「小モスク」)及び、マルウィヤ・ミナレットと同じ螺旋式構造の、一回り小型で四層から成る付帯聖塔が完工した。

 

2007年に、ニュージーランドのクライストチャーチで開催された第31回世界遺産委員会に於いてこれら一連の遺跡は、「カリフ宮殿」、「大モスク跡とマルウィヤ・ミナレット」、「小モスクと付帯聖塔」 から成る建造物群を対象に、「サマーラの考古学都市」として「石見(いわみ)銀山遺跡」(島根県) などと共に、「文化遺産」に登録された。また登録に際し、シーア派の聖地であることから、宗教対立の激化による建造物群への被害波及を勘案して、「危機遺産リスト」への追加登録措置もとられた。 

 

④ アルビールの城塞    【文化遺産】

イラク北東部の有数の油田地帯キルクークの北100kmにあって、フセイン政権が崩壊した2006年、正式に発足したクルド人自治政府の首都アルビールは、有史以来人類が継続して居住した集落のなかでは最古と推定され、その歴史は八千年以上昔(紀元前7千年紀以前)に遡ると考えられている。

円形の丘上に巡らされた、長さ1km強に及ぶ城壁に囲まれた市街の中心部には「シタデル」と呼ばれる城塞があり、この街がどの時代につくられたかは不明であるが、出土した紀元前2300年頃のものと推定される粘土板には、すでに城塞についての記述がみられその存在が確認されている。

シタデルを中心に放射状に街並みが伸びるアルビールは、アッシリア帝国以来、幾多の歴史的変遷のなかで重要都市としての役割を担い続けて来たが、アッバース王朝治政下の西暦1258年、フラグ率いる蒙古軍の侵攻を受けて城塞は陥落し、都市機能も失われた。

 

本遺跡は2014年にカタールのドーハで開催された第38回世界遺産委員会に於いて、富岡製糸場(群馬県)などとともに、「文化遺産」への登録がなされた

 

⑤ イラク南部のアフワル:生物多様性保護区とメソポタミア都市群の残存景観  【複合遺産】

 

この「世界遺産」は、イラク南部・シュメール地方のアフワル地区一帯に広がる四つの湿地帯(生物多様性保護区)と、この地方に遺る古代シュメール都市国家群に属する、「ウルク」、「ウル」、「エリドウ」の三つの古代都市遺跡(メソポタミア都市群の残存景観)を対象として、2016年にトルコのイスタンブールで開催された第40回世界遺産委員会に於いて、インドのカンチェンジュンガ国立公園 などとともに、「複合遺産」として認定・登録されたものである。

 

チグリス・ユーフラテス両河流域に広がる「アフワルの大湿地地帯」は、かつて2万ヘクタール(2百㎢)の広大な領域を有していたが、1990年代に、イスラム教シーア派による反政府活動ゲリラの潜伏拠点となることを恐れた当時のフセイン政権によって一帯の干拓が行われ、一時的に壊滅的な被害を被った。 フセイン政権崩壊後の政府の復興尽力もあって、その後、自然環境を取り戻し、多彩な渡り鳥や数々の固有種、絶滅危惧種などが生息するようになり、現在では豊かな生態系が形づくられている。「生物多様性保護区」として、「東ハマー」、「西ハマー」、「フワイザ」、「セントラル」の四つの湿地帯が「複合遺産」の対象となっている。

また、ここには、遡ること五千年前のシュメール期の中核を成した、「ウルク」、「ウル」、「エリドウ」の三つの古代都市の遺跡があり、発掘された史跡類が自然と混然一体となって残されている。

「ウルク」は、ウルの北西80kmのユーフラテス河畔にある、最古で最大規模の都市遺跡であり ドイツの遺跡調査隊が1900年代初めより発掘を開始し、百ヘクタール(1㎢)の広大な領域内から、紀元前3000年頃に建造されたとみられる都市神イナンナ(戦いと恋愛の女神)を祀った、巨大神殿跡 (壁面が漆喰で白く塗られているため、「白色神殿」と呼ばれ、後世のジッグラトの先駆的存在と見做されている)が出土しており、更には楔形(くさびがた)文字の元となった、絵文字が描かれた粘土板なども多数、出土している。

シュメール都市国家のなかで中心的存在であったとされる「ウル」は、1922年1930年代にかけて大英博物館とペンシルベニア大学の英・米合同遺跡調査隊(R.ウーリー隊)による発掘調査が行なわれ、多くの殉教者並びに金銀製の見事な出来栄えの副葬品を伴った第一王朝期(紀元前2500年頃)の、ウル王墓跡や、都市神ナンナ・スエン(月神)を祀った第三王朝期(紀元前2000年頃)の、ジッグラト跡などが出土した。後者はイラク政府(文化遺産庁)によって復元され その雄姿を今に伝えている。

「エリドウ」は、ウルの南西10kmにあって点在するシュメール都市国家群の最南端に位置し、シュメール期に先行する「ウバイド期」(紀元前5000年頃) から、ウル第三王朝期に至るおよそ三千年間に亘って、洪水が頻繁に発生する、チグリス・ユーフラテス両河の鎮静・安寧と豊饒を祈願して、都市神エンキ(水神)を祀った、祠堂や神殿が繰り返し建造された跡が付近一帯で見つかっており、シュメール地方で最も早くから定住集落が形成された地域であると推定されている。

 

⑥ バ ビ ロ ン   【文化遺産】

旧約聖書「創世記」のなかの「バベルの塔説話」で知られるバビロンは、バグダッドの南80kmのユフラテス河畔にあり、国家神マルドクを奉じる伝統ある王都として、古バビロニア帝国(紀元前1900年紀元前1000年頃)から新バビロニア帝国(紀元前609539)に掛けての、千有余年に亘って繁栄を享受し、アッシリア帝国の支配下にあった時期(紀元前1000頃-紀元前609年)にも、尊厳と誇りを堅持し続けた古代都市遺跡である。

 

1900年代初め、ドイツの遺跡調査隊によって発掘が開始され、「ハンムラビ法典」で著名なハンムラビ王(在位・紀元前17921750)治政下の古バビロニア帝国の遺跡群は、水脈の真下に当たり発掘出来なかったが、上層部の地層から、バビロンをオリエント世界一の繁栄に導いた新バビロニア帝国の二代目領袖、ネブカドネザルⅡ世(在位・紀元前605562)治政下の、都市遺跡群が出土した。

それは全周18kmに及ぶ二重の堅牢な外壁に囲まれ、ネブカドネザルⅡ世の住む壮麗な「南王宮」跡、国家神マルドクを祀った、神殿「エ・サギラ」跡、バベルの塔の呼称で知られる、聖塔「エ・テメン・アン・キ」跡(聖塔本体は現存せず、基礎部分のみ現存)、瑠璃色(鮮青色)を基調とした鮮やかな彩釉レンガ製の、牡牛と合成獣のレリーフが表面に施された、荘厳な「イシュタル門」、山岳帯であるメディア出身の王妃を慰めるため、ネブカドネザルⅡ世が故郷の山々を模して造園したとされる「空中庭園」跡、更には、神事祭祀催行の際に使用された「行列道路」跡や「バビロン市街」跡、「ライオン像」等の、貴重な史跡類が相次いで出土し、調査隊を驚愕させた。

 

2019年にアゼルバイジャンのバグーで開催された第43回世界遺産委員会に於いて、申請から三十数年ぶりに念願が叶って「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)などとともに、「文化遺産」に登録された。

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