「青銅器と古代中国の話」[会員投稿]
「青銅器と古代中国の話」
西村正臣(1962年商卒)
青銅器と古代中国の話を少しさせていただきます。 青銅はブロンズ像などでご存じのように銅と錫の合金で出来ています。 真鍮は銅と亜鉛の合金です。 青銅は中国では紀元前1600年の殷(商)の時代に多く作られるようになりました。 それまでにも紀元前2000年くらい前から黄河上流の新石器時代の文化である斉家文化において作られてはいますが、紅銅とよばれる自然銅で、硬度が低く小型の工具用途が中心でした。 しかし次第に金属の特徴が把握できるようになると、紅銅と錫の合金である青銅が作られるようになります。 青銅は紅銅に比べ融点が低く硬度は高い長所があるため大型の生活用具や武器などに適しています。
[出典:中国の青銅器ウィキペディア]
そして銅の精錬技術は次第に黄河流域に広がっていきます。 一方、人々の集団は各部族単位から国家への形成が進み、紀元前2000年くらいになると河南省の洛陽平原に初めての王朝である夏王朝が樹立されます。 夏王朝の存在は従来疑問視されて来ましたが現在は大型宮殿遺構や豊富な青銅礼器の発見により確実視されています。 夏王朝は約400年くらい続き、次に黄河の北東部に拠点をおいていた殷(商)(紀元前1600~1050)が王朝を建てます。 河南省の洛陽の近くにある偃師商城に拠点を置きその後遷都を繰り返し安陽市の殷墟に落ち着きます。 各都の遺跡からは宮殿跡、青銅器鋳造工房、貴族の墓地など多くが見つかっています。 鉄器は殷から次の西周前期に現れますがこれは隕石を加工したもので本格的な冶金技術によるものは西周(紀元前1050~769)後期になって現れます。
さて殷周時代、青銅を作るには膨大な材料や人員を必要とするため、王や貴族以外はこれを所有することが出来なく、黄金と同じような貴重な金属であり、権力の象徴として主に祭祀に用いる祭器・礼器として用いられました。 このため紋様やデザインは神秘的で恐ろしい雰囲気を持ち、王の絶対的な権威をかもし出しています。 鬼神崇拝からくる「とうてつ紋」という大きな目を持つ獣面紋は器に盛る食べ物を守り人々を恐れさせるものでした。 また龍、鳳凰などの想像上の動物の他、虎・犀・象・羊などの紋様も多く使われています。 この時代の中国大陸は緑豊かで気温も高く、象や犀なども住んでいたと言われています。 殷では先王を敬うことが禍福をもたらすと信じられていたため丁重な祭祀を非常に大事にしました。 祭祀は占いにより行われます。 また祭祀では生贄が必要なので多い時では300~400人規模の奴隷を生贄にしました。 奴隷は捕虜です。 いろいろな役目の奴隷がいて生贄用、作業用等すべて家畜と同じ扱いです。 また殉葬もすさまじく、愛妾、衛兵など多くの人間と青銅器が多数埋められました。 これは殷墓発掘により明らかになっています。 殷の次の西周時代の青銅器の多くも礼器として使用され、王室と家臣によって製造されました。 列国の諸侯が製造したものはわずかでした。 青銅器の大きさや数は地位によって厳然と区別されていました。
春秋時代(紀元前770~402年)に入り礼制が崩れていくに従い周王室と家臣の礼器は衰えていき列国諸侯の礼器が主流となります。 鼎の軽重を問うという言葉が出たのもこのころです。 さらに戦国時代(紀元前403~220年)になると礼器は威厳を失い日常の生活用品が大幅に増えました。 これに伴い新しい技術が次々と現れ、象嵌・メッキ加工・精密な彫刻などが普及しました。 金と水銀を合成した水銀剤を青銅器の表面に塗り火であぶって加熱し水銀を蒸発させると金メッキとなります。 腐食を防止できると同時に華麗な器物となります。 また銅と錫の合金比率を変えることにより硬度・強靭性・光沢が変わり用途により使い分けています。 礼器、飲酒器、武器、馬具、楽器、工具、農具などあらゆるものに使用されています。 なお秦国は礼器の生産に熱心ではなく鉄器の生産に励みました。 このため鉄の農具も生産され遊牧経済から農業経済への移行が進み国が豊かになりました。 同時に戦車などの武器も進歩し戦国時代末期には鉄器大国となり、強力な軍備で始皇帝が全国を統一(紀元前221年)することになります。
また、秦、漢の時代になると印章制度が発達し青銅の印も作られます。 私印は別にして、印は王より官位として貰うので印綬を結ぶというように印の上にはひもを通す鈕(ちゅう)という取っ手が付いていて、これにはいろいろな形があり、動物の形も多くあります。 余談ですが、天明4年に福岡県の志賀の島で発見された、後漢の光武帝から紀元57年に使者がもらったと言われる「漢倭奴国王」の金印には蛇の鈕が付いています。 そしてこれと同じ大きさデザインの金印が、中国雲南省に存在した滇(てん)国王にも下賜されており、雲南省の博物館に保管されています。 こちらは紀元前109年に前漢の武帝から受領したもので印面は「滇王之印」となっています。 なお滇国は今はありませんが、優れた青銅器を作っていて動物の表現は極めて優れており、また戦争や祭祀を表現した青銅器が多く残されています。 紙は後漢の中頃までは存在していなかったので(紀元105年蔡倫が製紙を発明)、文章は竹簡や木簡に書かれていました。 このため文章が書かれた竹簡をまとめて束にしてひもを封印するときに、これの封泥(蝋の封印と同じ)に印を押しました。
話が殷に戻りますが、1899年に清朝皇帝の秘書官王さんがマラリアの薬として生薬の竜骨(動物の骨や亀の甲羅)を買い、粉にしようとして文字らしきものを見つけます。 これが甲骨文字だったのです。 甲骨文字は殷でしか見つかっておらず、殷墟で発掘された数は15万片と言われています。 日本にも多数残っています。 これは殷の時代に政治をするにあたって占いで国の大事を決定するために使用され、その占いの結果などが甲骨に刻まれていたものです。 殷末期にはまつるべき先祖の数は160名余りとなり、2日に1回の頻度で祖先祭祀を行わねばならず、甲骨や生贄の数も大量に必要とされました。 甲骨文字は青銅器にも刻まれ、これは金文といわれやがて漢字へ変化していきます。
秦の始皇帝は全国統一に際し文字の統一を図り、小篆という新しい字体を普及させます。 また秦の始皇帝は様々な統一事業を行い、文字の統一の他にも度量衡の統一、貨幣の統一、車軌の統一なども行います。 青銅器には様々な文字や出来事が刻まれており、それが各時代の遺跡から数多く発見されているのでまさに記録の宝庫と言えます。
最後に虎符のお話を少し。
[出典:sinanet]
戦国時代、各国は中央集権制を図り、国王の軍隊に対する直接統制を強化するため兵符制度を実施しました。 国王の下には国王に代わって軍隊を率いる将軍が置かれていましたが、平時においては将軍には軍事行動を起こす権限はありませんでした。 軍隊は各級の将校・士官によって管轄されていました。 戦争が勃発すると将軍は国王の命令を受け軍事行動を委ねる割符をもらい受けるのです。 この割符が虎符と呼ばれるもので、虎の背中には文章が刻まれています。 虎の形をした10センチくらいの大きさの青銅器で、頭の先からしっぽの先まで背中から半分に分かれ、内部には突起がいくつかあり、合わないと合体できません。 右半分を国王から渡され軍隊の駐留所に行き、そこにあらかじめ預けてある左半分とぴったり合体すると駐留軍が将軍の指揮下に入ります。 現代でも符合という言葉は使われていますね。 以上