早稲田サロン(2025.12.13)

12月早稲田サロンは天候の危ぶまれる中、去る13日(土曜日)夕刻より定例の居酒屋
壱番館を会場に、今年4月に三十数年ぶりに小金井稲門会に再入会された、大阪府
在住の助田文明(すけだ ふみあき)さん(1974 社会科学部・卒)を講師役にお迎えして、
生まれ育った徳島県・椿泊(つばきどまり)地区を舞台にした歴史実話・「阿波水軍・
森家と徳島藩」の題目でご講演いただきました。

当日は講師を含め総勢12名が大テーブルを囲み、助田講師の自己紹介から始まった
講演は地元・阿南市椿泊地区周辺の紹介を経て、本題の「阿波水軍」の話に移り、配布
された貴重な内容の膨大な資料を元に昔日の阿波水軍の活躍ぶりを彷彿とさせる、
助田さんの語りに出席者一同、聴き入った次第です。

徳島県南部の風光明媚な橘(たちばな)湾と蒲生田(がもうだ)岬の間、紀伊水道に伸び
る燧崎(ひうちざき)半島の東部(先端部)に位置する漁業の町、椿泊で漁師を生業とす
る家庭に生まれた助田さんは、中学卒業までをこの地で過ごしたのち、40kmほど離
れた徳島市内に下宿して県立徳島東工業高校を卒業後、早稲田大学 社会科学部へと
進学します。

昭和49(1974)年の卒業と同時に大阪市内に本店を持つ地方銀行に就職し、31年間の
銀行勤務ののち、平成17(2005)年、55歳で同行を早期退職したあとは1級FP技能士の
資格で大手都市銀行を拠点に、56歳から9年間活動。66歳からこの3月までの10年間
は公的機関を窓口にキャリアコンサルタントの国家資格で FP教育、キャリア形成支
援、就職相談や関連する講演活動などの業務に取り組んでこられました。この間に、
地銀勤務当時の30代末~40代初めの4年間ほどを都内支店勤務となって小金井市内
に居住した折、小金井稲門会に一時的に籍を置かれたそうで、仕事が一段落したこの
4月からは大学時代の旧友と旧交を温めるため、大阪在住のまま東京地区の拠点とし
て小金井稲門会に再入会された、とのことです。

さて本題に戻り、戦国時代に阿波国を統治した細川家、三好家の舟師として鳴門の地
を拠点としていた海の豪族・森家は、二代目領袖の村春が、四国全域の制圧を目論む
長曾我部元親の侵攻を撃退後、天正13(1585)年の秀吉による四国攻めの先導役を務
め、戦勝に繋げた戦功により、戦後に阿波国を拝領した蜂須賀家政より三千余石を与
えられます。

そしてこの年、隣の土佐国への睨みも兼ねて鳴門から南下した森家は、風の影響を受
けにくい良港である椿泊を選びこの地に「松鶴城」を築城して阿波水軍の新たな拠点
とした、と云います。

森家の活躍はさらに続き、秀吉の朝鮮出兵、徳川幕藩体制確立前後の大阪冬&夏の陣
などを通じ徳島藩(蜂須賀家)の許で水軍として重要な役割を果たし、その名声は全国
に知れ渡るほどだったとのことです。

こうして徳島藩の水軍の長である森家は 同藩の中で家老職に次ぐ「中老職」を与えら
れ、徳川の平穏な時代の到来後には、それまでの森家中心であった水軍から徳島藩の
海上方へと、その在り方を変えます。

徳島藩・蜂須賀家の参勤交代では藩主の乗船する御座船を整然と取り囲むようにして
厳(おごそ)かに進む 大小70艘もの大船団の雄姿が、屏風絵(「参勤交代渡海図屏風」)に
遺(のこ)されています。

こうして、椿泊は森家の城下町として賑わいをみせ、明治になって以降も、漁港の街と
して発展を続け、今でも県内一の漁獲水揚げ高を誇っているとのことです。

以上、綿々と続いた森家は、幕末の戊辰戦争(1868~69)の際、16代の村晟(むらひら)が
明治新政府側に家臣団を引き連れて従軍しており出陣直前(1868年4月)に撮影された
貴重な記念写真(6人が写っている)の資料なども、助田講師から頂戴しました。

なお村晟は、この年8月の会津戦争(白虎隊が活躍)で戦死したとのことです。

森家は戦国時代から江戸時代を通じ水軍として存続し続け、それを家職として伝統と
矜持(きょうじ)を持ち続けた、全国的にも数少ない軍団だったと云われます。

以上が講演の概要ですが話題は「阿波踊り」にまで及び、助田講師が立ち上って本場の
踊りを披露する一幕もあり、会は盛況のうちに8時半にお開きとなりました。

最後に助田講師の近影と講演風景写真を数点付けて報告といたします。 

以上                                                 (文責:岸川)