メソポタミア興亡史[投稿論文]

 「メソポタミア興亡史」の概要

 岸川 公一(1972商卒)

 

古代シュメールの都市国家

筆者がイラン・イラク戦争勃発時(1980年9月)までの足掛け三年間滞在した、イラク共和国南端の港湾都市バスラ郊外のプラント現場から、さほど遠くない土漠地帯に古代シュメール都市国家「ウル」の、第三王朝期(紀元前二千年頃)のジッグラト(都市神である月神ナンナ・スエンを祀る神殿)がイラク政府により復元され、その雄姿を誇っています。また、ウル第一王朝期(紀元前二千五百年頃)の殉死者を伴う墳墓からは、古代エジプト文明に勝るとも劣らない、シュメール文明の文化水準の高さを示す金銀製の見事な出来栄えの多数の副葬品が出土しています。

ウル第三王朝ジッグラト全景

ジッグラト訪問時(右から三人目が当時30歳の著者)

  

王妃の髪飾り(ウル出土埋葬品BC2600)     黄金牛頭像(ウル出土埋葬品BC2600)

大英博物館とペンシルベニア大学の英・米合同調査隊(R.ウーリー隊)による「ウル遺跡」の発掘が始まった1922年は、二十世紀考古学上、最大の発見と云われる、「ツタン・カーメン」の王墓がエジプト・ルクソール近郊の「王家の谷」でハワード・カーターにより発見された年でもありました。

 

ウル第三王朝期は実質百年程度でしたが、五人の王が就任したこの期間に役所の文書行政システムが驚くほどまで精緻に整備されたと云われています。王都ウルや、大神殿が集中するニップル、南部の属州ウンマなどで、大量のシュメール語で記された楔形文字(シュメール語)の粘土板が出土し、解読された内容から、「契約社会」であった当時の実態が、かなり詳細に判っています。

 

ウルの北西80kmの地には、シュメール都市国家群の中でも最古で最大と云われる、「ウルク遺跡」があります。当時メソポタミア地方を統治していたオスマン・トルコと軍事同盟関係にあったドイツの遺跡調査隊により1910年代に発掘が進められ、およそ100Hr(1㎢)の広大な域内から紀元前三千年頃建造されたとされる、都市神イナンナ(戦と恋愛の女神)を祀った巨大神殿跡(白色神殿、後世のジッグラトの先駆)が出土。さらに、楔形(シュメ-ル)文字の原型と考えられる、世界最古(紀元前三千二百年頃)の文字とされる絵文字粘土板も千枚近く発見されています。

なお、アッシリア帝国最後の王都ニネヴェのアッシュール・バニパル王が建造した「大図書館」跡から発掘された、粘土板にアッカド語で記された「ギルガメシュ叙事詩」の主人公ギルガメシュは、ウルクの王で紀元前二千六百年頃に実在した人物と云われています。

 

イラク史跡粘土板「キルガメッシュ叙事詩」   英雄像コルサバード出土(BC8世紀)

                      [高さ5mキルガメッシュ神と言われる]

ハンムラビ王の統治

ウル第三王朝が紀元前二千年頃に滅び、シュメール人が歴史の舞台から去ってアッカド人国家のイシンとラルサが覇権を競う時代が約二百年続いた後、バビロン第一王朝(アモリ人)の第六代国王ハンムラビ(在位・紀元前1792~1750)が、混乱を平定します。そして近隣勢力である北方のアッシリアやユーフラテス中流域のマリと軍事同盟を結び、次いでこれらの領土を併合、帝国をメソポタミア全土へと拡大します。社会を組織・管理することが、道徳律の遵守を促し、安定した権力の基盤につながると信じていた王は、「地上に正義を確立する」者として、その使命を遂行するため神に選ばれた者と自らを称し、その「成果」を「ハンムラビ法典」に示したと云われています。

「法典」は、玄武岩製の高さ225cmの石碑で、バビロン第一王朝の主要都市の神殿に一部ずつ置かれ、最上部に正義を司る神シャマシュと、その前で祈りを捧げるハンムラビ王の姿が浮き彫りされ、282条の判決事例が楔形文字(アッカド語)で刻まれています。バビロニアの社会は「自由民」、「平民」、「奴隷」の身分に当時分かれていましたが、王は「強きが弱きを虐げることのないよう」にと、配慮したと云われます。「法典」は、広く法令の規範とされるとともに、以降の治世に於いても、永く影響を及ぼしたそうです。現在の「どこかの国の為政者たち」に是非とも見習って貰いたい、高い見識の国王です。

 

カッシート王朝(バビロン第三王国)とハンムラビ法典の「運命」

バビロン第一王朝はその後、カッシート王朝(バビロン第三王朝)に引き継がれます。紀元前1400年頃、クリガルスⅠ世は北方のアッシリアや東方イランに興ったエラムに対する防衛拠点として、バビロンの北方に城塞都市ドウル・クリガルス(現在名;アガルクーフ)を築き、この地にジッグラトを建造しました。ジッグラトは日乾し煉瓦製で、高さ約50米の風化した中核だけが今に残っています。17世紀以降、オスマン・トルコの治世にこの地を訪れ始めた西欧の探訪者達は、その異様な外見からこの遺構を、「旧約聖書」の「創世記」の章で神の怒りに触れ崩壊したとされる「バベルの塔」跡と、しばしば誤認したと伝えられています。

アガルクーフ(ドウル・クリガルス)のジッグラト

カッシート王朝はその後、エラムの侵攻を受けて弱体化し、シャマシュ神を奉ずる神都シッパルに奉納されたハンムラビ法典碑が、戦利品として紀元前1060年、エラムの国都スーサに持ち去られます。そしてこの石碑は1901年暮れ、フランスの遺跡調査隊により、実に三千年ぶりにスーサで発掘され、現在、ルーブル博物館に展示されています。時空を超えた、実に悠久な話であります。

イランのスーサで仏隊により法典が発掘された際の様子(1901)

 

アッシリア帝国の登場 ~ アレキサンドロス大王の平定

ウル第三王朝が倒れた紀元前二千年頃、北方に誕生したアッシリアは、雌伏の時を経てアッシュール・ナシルパルⅡ世(在位・紀元前883~859)の治世に隆盛となり、メソポタミア地方一帯をおさえ、首都を手狭になったアッシュールからニムルドへと遷都します。サルゴンⅡ世の晩年(紀元前705)には都をコルサバードへ移しますが、直後に王は遠征先で戦死したため、縁起を担いだ後継者のセンナケリブは、慌ただしく王都をその東南10kmにあるニネヴェへと、移します。孫のアッシュール・バニパル(在位・紀元前669~630)の治世に国力は最大となり、エラムを倒しエジプトを含めたオリエント世界の統一を成し遂げます。

英国のレヤード隊によるニネヴェ遺跡発掘調査で、センナケリブ王の「南西宮殿」跡からは守護神のラマッス(人面有翼牡牛)像などが、またアッシュール・バニパル王の「北宮殿」跡からはライオン狩図など多くのレリーフの他、「大図書館」跡が出土。洪水伝説にまつわる「ギルガメシュ叙事詩」(アッカド語版)など貴重な粘土板も多く発見され、それら発掘品の多くが英国に持ち去られて現在、大英博物館の「アッシリアン・コレクション」コーナーに展示されています。

 

このように雄姿を誇ったアッシリアも、アッシュール・バニパルの没後は急速に力を失い、新バビロニアと、エラムに替わり東方に興ったメディアの連合軍の攻撃の前に紀元前609年、滅び去ります。

メソポタミアを平定した新バビロニアは、二代目領袖ネブカドネザルⅡ世(在位・紀元前605~562)の治世に隆盛となり、フェニキア商人の商権をおさえるなどの政策で巨万の富を自国にもたらし、首都バビロンを大規模に拡張・整備し、当代オリエント随一の規模を誇る都市として大いなる繁栄を謳歌したと云われています。新バビロニアの崩壊からおよそ百年後のアケメネス朝ペルシャの治世に存命した古代ギリシャの旅行家で歴史家のヘロドトス(紀元前485~425)は、外面保護を兼ねて表面に施されたエナメルが日光を反射し燦然と輝いて佇立する壮観な「バベルの塔」の様子などや、栄華を誇る往時の王都の模様などを、著書「歴史」のなかで、「見聞録」として紹介しています。

ネブカドネザルⅡ世は、在位中にエジプト(ファラオ・ネコ)との覇権抗争の過程で、寝返ってエジプト側に付いたユダ王国を攻略、二度(紀元前598、586)に亘ってヘブライ人をバビロンに強制移住させる「バビロン捕囚」(=the Exile)を行ったことでも、知られています。これにより、ユダ王国は滅亡します(紀元前586年)。

こうして多いに繁栄を享受した新バビロニアでしたが、ネブカドネザル王の没後、東方イランでメディアに替わり覇権を得たアケメネス朝ペルシャ(キュロスⅡ世)の攻撃を受け、紀元前539年に滅亡します。ここに、イシン・ラルサ以来、1400年間に亘って続いて来たメソポタミア地方のセム民族による統治・支配は、終わりを告げます。

 

この遺跡の発掘調査は1900年代初頭からドイツ隊により行われ、周囲18kmに及ぶ二重の外壁に囲まれたなかに、壮大な「南王宮」や国家神&都市神であるマルドウクを祀った神殿(エ・サギラ)跡、「バベルの塔」の名で知られる聖塔(エ・テメン・アン・キ)跡、(=基礎部分のみが出土)、神事祭祀催行の際に使用された「行列道路」跡や「ライオン像」、また山岳地帯のメディア出身の王妃のためネブカドネザル王が故郷を模して造園したとされる、「空中庭園」跡などが出土。なかでも、バビロン市の正門に当たる「イシュタル門」は、多彩色の焼成煉瓦製で表面に守護神獣のレリーフがあしらわれた壮大なスケールで出土し、調査隊を驚愕させました。この「イシュタル門」はドイツ隊により本国に持ち帰られ現在、ベルリンのベルガモン博物館に展示されていて、バビロンに現存するものはイラク政府が製作した、三分の二に縮小されたサイズの「レプリカ」だそうです。

イラク史跡イシュタル門(ベルガモン博物館)

旧都バビロンは、その後のアケメネス朝ペルシャ(王都:スーサ、のちにペルセポリス)の統治下で一地方都市として次第に放置された結果、その崩壊(紀元前539)からおよそ二百年後にペルシャを倒したマケドニアのアレキサンドロス大王がバビロンに入城した紀元前330年にはすでに荒廃がかなり進んでいて、放置されていた「バベルの塔」も、表面に施された高価なエナメル類は住民らによって悉(ことごと)く剥ぎ取られ持ち去れて劣化がひどく、威容を誇った聖塔の往時の雄姿は見る影もなかった、と云われています。

廃都バビロンを新たな王都とする構想を抱いていたアレクサンドロス大王は、バビロニアの国家神を祀る「バベルの塔」の再建を目指し大々的な修復に着手しますが、三十代の若さで途中病に斃(たお)れ(紀元前323)、壮大な計画は実現することなく、夢と潰(つい)え去ります。

 

終 わ り に

 

古代メソポタミア地方に於けるめまぐるしい興亡史は、われわれ現代の地球上に住む人間の「欲得」に走る本性の縮図を改めてみる想いがして、誠に興味が尽きません。

アッシュル・バニバルのライオン狩り図

死に瀕する雌ライオン図

それは近世史のなかで「ハンムラビ法典」碑やアッシリア都市遺跡の数々の「出土品」(有翼人面牡牛像やレリーフ、粘土板)、バビロン都市遺跡の「イシュタル門」など、貴重な発掘品の多くが、19世紀から20世紀にかけて政治的思惑をはらんでこの地域に足を踏み入れた「列強各国」から派遣された遺跡調査隊により、「史跡保護」の名目の下に競争のごとく自国に持ち去られていることにも、端的に表れていると思われます。  

有翼人面牡牛像(アッシリア帝国)

    (完)