早稲田サロン(2026.07.11)
7月早稲田サロンは去る11日夕刻 会場の前原暫定集会施設に会員の渋谷秋雄さん(1984年 政経卒) を講師にお迎えして総勢13名の参加の下に開催されました。
今回の講演題目:「もしあの日 晴れていたら」 ~偶然が変えた歴史と人生~ は, 今から数年前 交換留学生としてアメリカ西部のワシントン州・リッチランド高校に福岡県内の高校から留学したひとりの女子高校生が ある事実を知って起こした行動が 米国民を巻き込む論争に発展した経緯を “偶然” に絡め紹介したものです。
同校の校章(ロゴマーク)を知って驚き同時に強い疑問を抱いた彼女は校内向け制作動画の中で疑問を吐露します。たちまちこの問題提起は拡散し地元新聞にも採り上げられ 米国内でロゴマークをめぐる大ツイッター論争にまで発展します。
そのロゴマークとは 原子爆弾がさく裂し沸き立つキノコ雲の中央部に高校名の頭文字のRを大きくあしらった意匠がproud of the cloud (キノコ雲の誇り)のキャプションとともに表示されたものでした..(添付資料:ロゴマーク 参照)このリッチランドは長崎に投下された原子爆弾に使われたプルトニウムが生産された地であり住民の多くは “キノコ雲” が戦争を終結させたシンボルとして原爆に誇りを抱いてきた土地柄。同校のロゴマークもそうした歴史のなかで誰も疑念を指しはさむ余地のない “地元高校の誇りのシンボル” だったわけです。
そうした “歴史”を彼女は初めて知るわけですが 一方で彼女は小倉の出身。そしてプルトニウム原爆の当初の投下目標は小倉でした。偶々 小倉が当日曇天だったために投下地が急遽 長崎に変更されたのでした。
「わたしにとってキノコ雲は犠牲になった人びとを想い起こさせます。この雲の下には兵士でなく罪のない多くの一般市民がいました。そのことを誇りに思うべきでしょうか?わたしはロゴマークの変更を求めているわけではなくこうした見解の人びとの存在も知って欲しいのです。もし祖父母があの時焼け死んでいれば私はここにはいない。今ここで話ができるのは ひとつの天候の巡りあわせ ~偶然のたまもの。” あの日が曇りだったから “」と 彼女は静かに語り終えます。
ツイッターには彼女の発言を称える声やキノコ雲のロゴマークへの批判がなされるなどこうした考えを知った米国民の大きな反響を呼びます..そうした数々の声に「本当にやってよかった」と彼女は話していたそうです。
【前日譚】
そして歴史にもまた ” 偶然 ” は付きまといます。原爆投下の年を遡ること20年。一組の米国人夫妻が京都に観光旅行に訪れていました。のちの米陸軍長官を拝命する若き日の軍人スティムソンです。この時に観た古都の素晴らしい景観が彼に深い感銘を与えます。やがて20年の時が経ち日本への原爆投下計画の中でプルトニウム原爆の投下地が京都に決まりますが時の米国大統領トルーマンに対し陸軍長官スティムソンはその理由と共に京都への投下を控えるよう直訴します。要望は直前に聞き入れられ投下地は小倉に変更されました..もし彼の直訴がなければ古都・京都の今日の姿も大きく変わっていたことでしょう。
【その他 個人的な偶然】
*” 早稲田は人生の交差点 “ ➡ 両親の早稲田での出逢い。
*イタリア旅行の列車内の出逢い、銀行時代の逸話、立ち飲み屋での出逢い 等々
【今回の講演のまとめ】
*アメリカ留学生の女子高校生のスピーチから考えること ~歴史も人生も結局は “偶然の積み重ね” から成り立っている ~ 今われわれがこうして見聞きしている世界も偶然の結果の姿。
*” 限りある人生 ” だから 出逢った ” 偶然 ” は大切にしたい。渋谷さんの今回の講演を聴いて聴講者一同 歴史と人生の偶然性を改めて思い知らされた次第で 誰云うとなく自らの “偶然体験談”を語り会は盛況のうちにお開きと
なりました。
なお最後に付け加えますと女子高生は のちに早稲田大学に進学する古賀 野々華さんで 2024年9月に社会科学部を卒業後、現在はドキュメンタリー映像作家として活躍中です。
以上 講師近影を添付して報告とさせていただきます。
【渋谷講師プロフイール】
1960(昭和35)年 山形県の豪雪地帯 新庄市の生まれ。 都内世田谷区 烏山で成育。
学生時代にはテニスと旅行に明け暮れ1984年4月の大学卒業とともに三井銀行
(現 三井住友銀行) に入行。銀行では主に融資・ファクタリング業務に従事する。
昨2025年 関連会社を定年退職し今日に至る。
7月早稲田サロン講演・聴講者氏名:【敬称略】
梅根憲生 輿水敦 坂井研次郎 関政己 辻本英一 永井庸夫 西村正臣
堀地のり子 村田迪夫 吉川裕子 亘理鐵哉 【進行役】岸川公一
以 上
早稲田サロン 世話人
岸川 公一

